私の故郷

げんき

 

 

  

私は幼少期から高校を卒業するまで父の仕事の関係上山口県内を転々として暮らした。

そのため、はっきりとここが故郷だと呼べる場所はないのだけれど、この歳になって郷愁に駆られるところがある。それは今は家族の誰も住んでいないが、私の本籍地に当たる山口県東部のどかな田園地帯に位置する柳井市日積(やないしひづみ)である。

 

ここには我が家のルーツがあり、私自身は幼稚園の2年間と小学一年の計3年間この地で暮らすとともに、小学校を転校してからも、夏休みなどの長期休暇に入るとすぐに”日積”に帰り、いわいる”お外”で、幼友達と思いっきり遊んだ。(帰るという言葉が最も腑に落ちます)

私の家は、私から遡ること4代前に、本家から独立して分家を起こしたのが起点である。移動は徒歩に依存し、グローバルな交流がなかった祖父母の時代や我が家を起こした初代の世代はまさにこの“日積”こそが生活の中心であり、全てであったろう。また若かりし頃に終戦を迎え、その後日本の復興の時代に懸命に生きた、父母世代も

“日積”を大切にし、少しでも家族にとって進歩があるよう、汗を流して働いてくれたと感謝している。

そういえば、父から16歳で嫁いできた祖母(父にとっては母)との思い出話を折に触れ聞かされた。

父が小さかったころ、祖母(母親)と手をつないで、一山超えて一日がかりで祖母の実家に歩いて泊りに行ったこと、祖母と父が二人で農作業を行っていたところ、一日では片付かず、農機具を収納する小屋に祖母と二人で寝泊まりしてまた翌日の農作業を行ったこと。

そしてまた父からは家から遠く離れたところに位置する旧制中学に毎日、時間をかけて自転車通学していたのだが、大半の学業のライバルは、街中から通学していたため、勉強に費やす時間が多く確保できるのだが、高低差を伴い、さらに遠距離である通学路であるため、通学に長時間を要したため勉強時間の短縮を余儀なくされていたが、集中することにより、乗り越えてきたこと。

この通学にかかわる笑い話として、フンドシがチェーンに絡まり、自転車がこげなくなり途方に暮れたこと。(この話は、いつ聞いても捧腹絶倒ものだった)

みんな前を向いて懸命に生きてきたことに違いはない。

 

私の趣味である魚釣りも、この“日積”で覚えた。

初めて網で捕った小魚のピチピチした動きが網を通して感じられた際の感激、そしてその場所となった、春爛漫な小川(我が家のそばを流れていた)のきらめき、水の冷たさ、友だちの歓声。

祖父が竹で作ってくれた釣竿に近くの商店から確か10円で売っていた釣り具を買って、小麦粉に水を混ぜ、団子状の餌にして釣ったハヤ(カワムツ)。

祖父はとにかく魚を食べることが大好きで、私が捕ってきたきた魚を嬉しそうにさばいて私と一緒に食べたものである。

夏休みに外出が解禁となる朝10時になると急いで、近くの大川(由宇川)と呼んでいた川にかかる橋まで足を運び、橋の上から輝き透明な清らかな流れの中を悠然とまたあるときには、電光石火の如く素早く動くハヤや、砂の上を泳ぎ回り、ときには砂に潜るスナハリ(カマツカ)などを観察して、午後からはじまる魚取りに向けていろんなシミュレーションを頭の中で行って過ごした。

この川には、川のアンコウと呼ぶべきドンコや、ウナギ、フナ、コイなどもいた。

ブルーと朱が鮮やかで、また胸鰭が大きく発達したヤナギバエ(オイカワ)のオスを”カラー”と呼んで。瀬の中をひたすら「カラーがおったどー!!」と絶叫しながら、追い掛け回すのも楽しかった。

梅雨時期になると、大川が洪水状態となり、支流である我が家のそばにあった小川に大川から大物の魚が遡上してきた。堰堤にある深みに2~3日避難した後、また本流に戻っていっていたのだろう。いつの間にか姿を消すのが常だった。その大物をなんとかして網で捕ろうとするのだが、なかなか思うようにはいかず、流れの状態が通常に戻ると忽然と姿を消すのだった。

枝握りといって岩と岩との隙間に腕を突っ込み、隠れている魚を握って取るということもした。

川のにおいや、水中眼鏡から見た川の様子などなど、今でも鮮明に記憶に残っている。

 

そういえば、こんなこともあった。小学5年のアポロ11号が月に行った頃のはなし。盆休みを利用して大阪から帰省した叔父(父の弟)と父と私とで暗闇迫る夕刻から、我が家のすぐそばを流れる小川にウナギを突きに行った。夜行性のウナギは、夜になると穴などから抜け出し、餌を追うのである。明るい懐中電灯にて水面を照らしながら、上流に向かって進んでいた時のこと、近所のおばさんが橋の上からじいーっとこちらを見てる。父の命により3人でお辞儀をしたのだが、そのおばさん、突然脱兎のごとく走り去って行った。翌日祖母が、近所の店に買い物に出かけたところ、すぐに息を切るように家に戻り開口一番「キツネが出たげな。しかも3匹、一匹は子ギツネ、明るいもので周囲を照らしちょったんじゃと」

それを聞いた我々3人の口がアングリと開いたのは言うまでもない。

(ここで雑学)

小さいことから、ずっと疑問に思うことがあった。それは高い園庭を伴う、川において、常識的に魚止めとなってもおかしくない箇所より上流にはたしてウナギが海から遡上し得るのかということ。キツネに化けたあの日、ウナギを捕獲する可能性はあったのかということ。(実際、あの時は何も捕れませんでした)

これにたいし、他県支部患者会の方で、田舎暮らしの達人と呼ばれる方から、明快な回答をもらった。「うなぎは。急峻な流れを上る際は。後ろ向きになって、しっぽをくぼみにひっかけながら登る。したがって、どんな滝、園庭も、ウナギにとって遡上の妨げにはならない。

ウーム ウナギ君なかなかやりおる。

 

ところで先日とある理由から、“日積”に行き、ご近所さんだった方とお会いする機会があった。

実際にはその方とお会いするのは初めてのことであったが、お会いした瞬間から、その方のお人柄にぐんぐん引き込まれていった。その方はこの田も作られているのであるが、お話しした中で感動した言葉があった。

それは、「時間があれば何かにつけ田の中に入っていくのですが、田に入るときは必ず稲に向かって『お前たち、私が守ってやるからな』と心の中で声をかけるんです。」という内容のものであった。

私の先代たちを含めて、ここ日積で暮らしている方々は皆、同じような思いで半農の暮らしを営んでおられるのだろうと実感し、深い感慨を覚えた。

 

その晩、姉に当日の説明のため電話をした。

姉は、その“日積”で、まさに”いなかっぺ大将”だったらしく、自分の幼少期の思い出話を嬉しそうに話してくれた。

 

心の底から満たされていった一日だった。


 


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コメント: 4
  • #1

    コロン (火曜日, 12 10月 2021 14:19)

    日積・・・懐かしいですね。私の初めての勤務先が日積でした。
    あるお宅に下宿させて頂き一年間という短い期間でしたが凄く今でも心に残っています。のどかでとても良い処でした。夜になると辺りは真っ暗で虫の声だけ。
    数年前に行ってみましたが当時と全然変わってなくて驚きました。風景も人の心も変わっていない、そんなところでした。

  • #2

    元気 (火曜日, 12 10月 2021 15:23)

    コロンさん、ありがとうございます。
    姉と電話で話したのですが、私たちの故郷はやっぱり日積じゃね。ということで意見が一致しました。
    今は道路が整備されていますが、昔小学校へ通った道、日積みから柳井の町へつながる険しい数本の道などが残っていて、今後行ってみたいといっていました。
    日積で暮らしていたころ、姉は野生児というか、お山の大将というか、そんな存在だったと自負していますが、小学校高学年で街の学校に転校すると、その違いに大きなカルチャーショックを受けたとのこと。
    私も時々この集落を通過するときがあるのですが、文中に出てくる大川に架かる橋に立って川を見下ろすことがありあす。
    こちらの方は、護岸工事などから昔の面影はまったくありませんが、途中由宇温泉までの下りの領域は、昔と変わりありません。私も釣竿持参で大川に行ってみたいです。
    おpppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppp

  • #3

    スミピー (水曜日, 13 10月 2021 17:45)

    げんきなこさん、こんにちは!
    元気さんのこちらのブログ、引き込まれるように読ませていただきました。
    元気さんの幼少期の思い出や原点、故郷はこの"日積"という場所に凝縮されてるんだなぁと思いましたし、それがものすごく伝わってきました。
    僕も今は安芸太田町である戸河内や加計という田舎町で生まれ育ちましたので、いつの間にか自分の思い出もオーバーラップしながら読み進めたりもしました。
    特に川の匂いや水中眼鏡で見た川の中の世界は今思い出しても懐かしいというか、あの日に帰りたい、と思ったりもします。
    それは今の生活が嫌だからというよりも、ただただ、"帰りたい"
    そんな心の奥底にある気持ちのような気もしました。
    心の故郷、いつまでも大切にしたいですし、その場所に思い馳せることは、自分が今生活してるなかでもとても大事なことなんじゃないかとも改めて思いました。
    素敵な投稿ありがとうございました。

  • #4

    元気 (木曜日, 14 10月 2021 20:24)

    スミピーさん。コメントありがとうございます。久々の投稿でした。
    スミピーさん、戸河内、加計エリアが心の奥底にある故郷なのですね。少年時代の思い出はなぜか私にとって珠玉の色あいを放っています。
    今まで、日積に対し、「蜂ケ峰 思い出はいつもきらら」のような、思いでいたのですが、今後は前を向いて、関りをもっていきたいと思います。

    https://youtu.be/VlAGpT8XjHs