J.Uさんのエッセイ(病むことから学んで)

J.Uさんとの出会いは、2年ほど前だったでしょうか?

素敵な染めのお洋服をおしゃれに着こなされる方だなあ、というのが第一印象だったように覚えています。

 

その後、患者会の会報の編集のお手伝いを一緒にするようになって、「必要なこと」以外の雑談もする中で、J.Uさんの豊かでたのしく、聡明な人となりを知りました。

 

広島県支部会報に掲載されたJ・Uさんのエッセイに深く心打たれましたので、お許しをいただいて、ここに転載させていただきます。

J・Uさん、ご許可いただき、ありがとうございます。(絵、マコリー田阪誠さん)(きなこ)

 

 

病むことから学んで

                   J・U

                                 

 身を切るような寒さなど忘れてしまいそうに暖かい冬を通りぬけ、気が付けばすぐ側まで近づいている春の気配、暖かさと一緒に何かしら良いことを運んでくれるような季節の始まりに、多くの期待をかけながら生きていた時代がよみがえる。

紆余曲折を経てたどり着いた七十代、世間では後期高齢者と呼ばれる身分である。ささやかな年金と娘家族のやさしさに助けられて暮らす毎日である。

持て余すほどにやることの多い毎日を卒業して、人並みに自分のために使う時間を増やしてみようと決めた。人生もおしまいに近づいたこの時代をこれまでと違った色合いで生きてみたくなったのである。子供や孫たちも同じ想いでいてくれる様子、反対する者はいなかった。三年前のこの季節、春が始まろうとしていた頃・・・・・・・

、目覚めたばかりだというのに言葉にできないほどの倦怠感、決して短くはない自分の生涯で経験したこともない無気力な気持ち、言いようもなく不調な身体を立て直して一日の始まりらしく元気な自分を呼び起こすのは至難の業であった。常日頃めったなことで身体の不調を訴えて家族に心配をかけるような事はしたくないと思ってきた強気の自分は見事に消え失せ会話をすることさえ鬱陶しかった。

「いつ何が起きてもおかしくない年齢になりましたが今のところ不備なところはございません」」とか、「健康であることだけが唯一私の取り柄です」などと胸をはって健康なわが身を誇らしげに語っていた私であったのに、これはいったい何故と夕食を済ませたばかりの時刻というのに眠くてソファーに身を預けながら、こうして私はだらしなく老いていくのであろうかとぼんやり考えたり、鬱病もこのような症状ではないかと聞きかじりの情報をたどりなおしてみたり、少ない知識が頭のなかで堂々巡りするばかりで、診察をうけてみるという気力がわいてこなかった。もっとも無理やり身を起こして内科受診をしてみても日頃の検査の結果すべての数値は正常であるのだから気のせいでしょうと言わんばかりに精神安定剤を処方されるのみであった。

メンタルの衰えとしかとらえられない状態の中で幼いころから姿勢が良いと評されていた私の背中が前屈してきたのを家族が気にし始めた。「テラノザウルス」みたいと冗談を言う孫に「とうとう恐竜になるのかしら」と返しながらもそれがパーキンソン病の症状であるとは露ほどにも思いは至らず、そもそもパーキンソン病の何たるかを知らない状態といっても過言ではなかった。頭の片隅に病名だけがかすかにとどまっているにすぎない他人事であったのである。

 老化現象であるとの思い込みから、気分に負けてはいけないと自分自身を叱咤激励しながら、息子や娘に誘われ飛行機を使って長距離の観光地を訪れたのも一度や二度ではない。一日のうち何度か襲われる身体の不調をやりすごしながらよく動きよく食べ、よく飲んだ。正に「知らぬが仏」なのであるが、今にして思えば調子の悪さにかこつけて家に閉じこもっているよりはよかったのかもしれない。

 老化現象とはこんなにまでつらいものであるかと自問自答しながら一年を過ごしまた春がやってきた。

友人たちとの食事会の席で、身体が不調であることなど何も告げていない友人がいきなりパーキンソン病ではないかと私に問いかけてきた。年に三度くらいしか会う機会のないその人からずっと分からなかった病名を言い当てられたのである。テラノザウルスのような姿勢からそれを察知したのかどうかは確かめてはいないが、訳のわからないつらさからの脱出のきっかけを作ってもらったのである。生涯を通して恩人と思うべきであろう。

 

 次の日娘に付き添われて訪れた神経内科で病名は確定された。「パーキンソン病」と呼ばれる難病が私の前に立ちはだかったのである。知識はないと言ってもその病を完治させる手立てはみつかっていないということ

くらいは知っていた。不調が続きながらも自分は健康であると信じていた私にとっては青天の霹靂である。

まず最初に「死ぬことはないから・・・・」という言葉が医師の口をついて出てきた。80歳近くまで生きてきた私である。今更死ぬか生きるかということにはあまり興味はなかった。死ぬと言われれば、ついにその時がきたかと覚悟しなければならない年齢である。問いたいのは命が続くのか否かではなくて、治る手立ての見つかっていないこの病で壊れていく自分の身体とどのように向き合っていけばよいのか、どこに照準を定めればよいのかということであった。しかし医師にそれを確認しようとした瞬間、私の頭のなかにはまるで別の思いが沸き上がってきたのである。

神とよぶ存在があるのかどうか確かめられるほどに真面目な信仰はしたことがないが、もしそれにふさわしい絶対なるものがあるとしたら「これが次の課題ですか」と問うてみたいと。

長く生きている間に体験し学んだことは数限りなくある。浅はかな考えであったと反省することしきりといったこともあれば、よく頑張りましたと我と我が身を褒めてあげたいこともある。自分の意志とは関係なく舞い降りてくるあらゆる出来事から逃げないで対処するのがわたしの生き方であったはず。難病に罹患したくらいのことであわてる事はない。「受けて立ちましょう。ここからの体験を糧として、何かをやってみろとの事ですね。まだまだ自分のためだけにのんびり時間を使って暮らす時ではないのですね」と居直る想いで身体に元気が蘇る。私は医師の顔をみつめるだけで何も言葉にはしなかった。

。身体に不具合を抱えて生きることの大変さは理解しているつもりであったが、やはり当事者となってはじめてそれがいかばかりのものであるかを知る。若くして罹患し、何年もの長い歳月を病気と向き合ってこられた方たちの笑顔が、如何にすごい意志の強さに支えられているものであるかを知るに及んで敬意の念はふかまるばかりである。世の中の大概の人たちが普通にやってのける当たり前のことをやるためにどれだけの粘り強さが必要であるか、この期に及んで初めて身にしみて分かってきた時、この病がいかに自分にとって必要なものであったかに気づいた私である。

面白いことに、病名がわかりそれなりの手立てを講じる様になってそれまでできなくなりつつあったことが出来始めるようになってきた。これまでと違ったことといえば投薬を続けているという事だけである。因果関係を医師にただすことも面倒な気がして成り行きを見守っているだけであるが。

ブラウスの背中のボタンやネックレスの金具が扱えるようになり、書きづらくなっていた文字もゆっくりと時間をかければ自分の文字らしくなってきた。そんな時私は自分自身の身体の部首に声掛けをしてあげることにしている。ボタンをはめられた指に「上手にできたね」とか、書き終えた字を見ながら「大分うまくなったじゃない」とか・・・・・・ そして指をニギニギしたり、ブラブラして「まだまだ動きましょうね」と励ましてあげる。足も首も腰も、それぞれに人格を認めて友人にしてしまったらなんとなく云う事をきいてくれる気がする。すべてのことに時間をかけてゆっくりと楽しみながらがモットーである。

今年もまた桜が咲き始める。病名を告げられて二度目の春である。心身ともにつらさや悲しさを味わう朝もあるが、何かを学び何かを悟る為に与えられた課題と受け止めクリヤーした後に訪れる幸せを信じていたい。

あの春からはじめた朝のテレビ番組「テレビ体操」は二年間途切れず続けることができている。

 

 

 

 

 

 

 

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コメント: 4
  • #1

    N (金曜日, 23 10月 2020 23:18)

    すみません、毎日登場しまして。
    放送時間と施設からの帰りと重なってしまい塚15分ほどでしたが楽しく聞かせていただきました。スゴかったですね。FM放送なのに、Zoomを用いてたんばと大阪と広島を結んで3元中継録音とは。何だかあたたかな気持ちの感じられる、難病患者のことを大切にしてくれているんだなあという思いが伝わってくる放送とうれしく思いながら聴いていました。こてつさんも優しく温かな語りで良かったです。
    今日のお話の患者さん、ご自分の病気の症状にくされることなく、自己肯定感をもって優しい気持ちで向き合っておられたところが心にしみるものがありました。

  • #2

    きなこ (金曜日, 23 10月 2020 23:35)

    Nさん、こんばんは♪
    毎日登場してすみません、なんてことはまったくありませんよ。
    逆にうれしいことです。ありがとうございますね。
    ラジオ、後半15分をお聴きくださったのですね。
    前半も後半と同じ雰囲気で、関西人らしい正直でやさしくておおらかでたのしいノリで、こてつさんが進行してくださっていましたよ。
    森重恵子さんのお話だと、これから毎月1回、こてつさんのラジオに呼んでいただけるそうなので、また来月、お聴きいただけるかもしれません。
    またその時、よろしくお願いいたしますね。
    それからJ・K・さんのエッセイに感想をありがとうございます。
    腐ることのない自己肯定感。
    優しい気持ちで向き合う。
    どちらもとてもとても難しい事ですね。
    そしてその二つ共を、確かにJ・K・さんはお持ちだなあと、Nさんの投稿を読ませていただきながら感じました。
    ご自分が難病に苦しんで神さまに問いたくなる思いを持つそのときに、もっと若くして罹患した人の笑顔を凄いとお感じになられたり、「受けて立ちましょう」と思うことがお出来になったり・・・、それはやはりこれまでのJ・K・さんの生き方がご誠実で正しかったということなのだろうなあとも感じています。




  • #3

    スミピー (土曜日, 24 10月 2020 02:45)

    げんきなこさん、コメント失礼します。
    J.Uさんのエッセイ読ませていただきました。
    ご病気を発症され、きっとどうにもできないくらい悲しい色で色塗られた毎日だったでしょうに、エッセイを読み終えた感想は、すごく温かく木漏れ日のように優しいイメージでした。
    特に逆に病名がわかられたところから、ご自分に課せられた人生においての成すべき事であると切り替えられ(それがまたすごい)あったかい陽射しが射すなか、手足をさすり、ご自分の身体に友達のように話しかけられてるご様子が頭に浮かんできて…負けない強さと、受け入れましょうとご病気を抱擁するイメージというか…
    でもそれと同時にパーキンソン病を患われるということの大変さ、きっと言葉では言い表せないくらい人生を困難にしてしまうご病気であることもまた伝わりました。
    なかなかそうできることではないですが、自分も色々な困難をもっと大きな心で受け止めクッションのように吸収しながら優しく跳ね返すことができたらいいなとこのエッセイを読ませていただきながら思いました。
    素敵なエッセイのご紹介ありがとうございました。

  • #4

    きなこ (土曜日, 24 10月 2020 11:06)

    スミピーさん、おはようございます。
    コメントをありがとうございますね。
    最近よく思うのですが、やはり病気は本人に載っているもので、どんなに側にいても本人以上にしんどいということはないのだろうと思います。
    私も元気さんにいろいろエラそうなことを言ったりしていますが、もし私がパーキンソン病になったら、どうなることだろう、元気さんのようにあっけらかんと人前で団扇を振れるだろうか、それを出来るためにどれくらい月日がかかるだろうか、と思ったりします。
    JUさんがお書きになっている、「(障害者、難病患者が)世の中の大概の人たちが普通にやってのける当たり前のことをやるためにどれだけの粘り強さが必要であるか、この期に及んで初めて身にしみて分かってきた時、この病がいかに自分にとって必要なものであったかに気づいた私である。」の部分を読んで、その通りだろうと思うと同時に、罹患して間もない時期に、それを「自分にとって必要なもの」ととらえられたことは、JUさんがご自分の人生で獲得された感性で、心から尊敬します。自分の生き方、考え方、感じ方が、自分を救うということなのかもしれないなあとも思いますし、それは一日一日の誠実な生き方によって培われるかもしれないなあ、とも思います。パーキンソン病の患者会に入れてもらって、たくさんの患者さんにお会いして、その生き方のすばらしさをたくさん見せていただいています。やさしく、あたたかく、奥深いお心を感じるたびに、病気が人を育てということがあるのではないか、といつも思うのですが、それは病気が片時もその人を離れない、こういう言い方が適当かわからないのですが、片時も離れない病気が修験僧のようにその人の心を育て続けているということもあるのではないかとも感じています。