「憧れ」の国

 

今、本箱にあった「アメリカ素描」を読んでいます。
司馬遼太郎作。
司馬さんの作品は「坂の上の雲」とか、「菜の花の沖」とか、我が家の本箱にも何冊かありますが、どれも、若い元気さんが読んだ本。

「アメリカ素描」は、新聞に連載された紀行文だそうで、今更30年も前のアメリカもないかな、と思いましたが、ページを開いたら、司馬さんの見る目のおもしろさに引き込まれて、読みはじめました。

司馬さんのアメリカ旅の始まりは、カリフォルニアの韓国人街。
ベトナム戦争後、30万~40万の韓国人が移民として大挙して来て、街を作ったのだそうです。
それだけの数の移民を「国」という胃袋に納めて平然としているアメリカの大きさを、司馬さんは凄いと見ています。
そんな見方のできる司馬さんが凄い、と敬服。

~「るつぼ」に、さまざまな異文化を持つ人たちがやってきて、さまざまな文化がすれあい、たがいにその長所を取り入れ、たがいに特殊性を磨滅させて、誰でもが参加できる文明が出来上がる。
中国が何千年もかけて行ったこの営みを、アメリカはわずかニ百年で作り上げた~

そうなんだ。
移民って異文化をもった人たちなんだ。
るつぼ、という表現で、私たちは学校で習ったけれど(今は、サラダボール、と習うそうです)、移民を受け入れ、混じり、互いに変わり、合わさることで、生まれるものが文明で、その国がアメリカだったのですね。

~実際に移住しないにしても、異文化をすべて許容してくれるアメリカという国があって、いつでもそこに行けるという安心感が、みんなの心にあるのではないか~。
司馬さんの友人がそのような話をされ、司馬さんは深く共感されています。

 

トランプさんが大統領になることになって、アメリカは「憧れ」をなくした、と言った人がいたけれど、そういうことだったのだなぁ。

その国の大統領が自分の国を「第一」に考えるのは当然だと理解しながら、トランプ新大統領に対してわたしたちが感じている漠とした不安の正体が、少しわかったような気がしました。

まだ最初のあたりを読んでいるのですが、司馬さんは30年前に、今の排他的な状況が来ることも予期されていたようで、凄い目をもった人だなあ、と、あらためて感じています。

                                     (yama-p)(きなこ)

 &今日の一曲&

みんなが笑顔

https://www.youtube.com/watch?v=Vd2WmvFx1O4

 

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コメント: 4
  • #1

    しゅうじ (土曜日, 21 1月 2017 16:35)

    もう20年近く前ですが、アメリカ行って勉強しようって時に、実際教えてくれたのはインド、パキスタン、イラン、サウジアラビア、中国、韓国の人達でした。今の仕事場も技術系人材が超不足していて多くの外人部隊が入って来ていたり、スーパーで会うすぐ近くの町工場で働いている人たちはみなブラジル人だったりと、日本もこれからはサラダボール化の道を歩むんですかね。

  • #2

    きなこ (土曜日, 21 1月 2017 18:04)

    こんにちは♪
    そうなんですか、アメリカに留学されていたんですね。
    それならきっと、今しきりに報道されているトランプ大統領やアメリカの様子も、格別な思いでご覧なのでしょうね。
    日本のサラダボール化については、思い至りませんでした。
    確かにそうですね。
    そういえばうちの近所でも、牡蠣打ち場で働いているのだと思うのですが、顔は日本人と区別がつかないけれど、足の長い女の子の集団をよく見かけます。
    この話、30年前のアメリカの話であると同時に、今の日本の話でもあるのですね。新しい気付きだ。
    私の中に、考える種をもらいました。
    ありがとうございました(*^_^*)

  • #3

    しゅうじ (日曜日, 22 1月 2017 07:15)

    大学留学ではなく、当時資本提携のあった海外企業へ出張ベースで何度も通ってたときがありました。
    脳も化学反応で動いてるので?行動行く末が読める人には読めるのでしょうか?素晴らしいというか少しこわいというか!です。

  • #4

    きなこ (日曜日, 22 1月 2017 11:27)

    おはようございます♪
    そう、司馬さんの目、コワイですね。
    アメリカの韓国人街にしても、もしわたしなら、わあ賑やかだなあ、ずいぶん多くの韓国人がアメリカに渡られたんだなあ、と目の前の事実しか見えないと思うのですが、司馬さんは、こんなにたくさんの異国人が移住しても問題が起こらないアメリカという国をご覧になっている。
    そしてそれを、歴史の大きな流れにあてはめて考えられている。
    まるで目の前の現実というバラバラの数字を、歴史の流れという公式に載せて答えを出しているような感じ、というか。
    脳が化学反応で動いている、というのも、今初めて知ったのですが、ワタシには理解不能なしゅうじさんと元気さんの「神の数式」のコメントのやり取りを読んでいて、司馬さんの頭には何か「歴史の公式」のようなものをあって、目の前の出来事が公式に処理された真実の姿として見えていたのかなあと思いました。