昨年、みかん山の持ち主である叔母が亡くなり、毎年、困るくらい貰っていたミカンが、パタリと届かなくなりました。
ところが先日のことです。
「みかん、いらんかね?」
と、実家の母から電話がありました。
「味はおいしいんよ。でも、みかけはまことによくないミカンをもらったんじゃけど、食べるかね?」
と尋ねられ、
「そりゃあ、食べるよね」
と答えたら、なんと数時間後に、島から二人で車でやってきました。
えらい早かったね、と言いながらトランクを開ければ、え?こんなに?!
大小まちまちの箱が数箱。
みんなミカンでいっぱいです。
「ミカンを作っちょる同級生んところに行って話しちょったら、何の話からか、娘家族はミカンが好きでね、という話になってね。
そしたら友達が、そんなら器量の悪いみかんじゃけど食べてもらえるかねえ?と言うから、そりゃあうれしいよ、と答えたら、倉庫からこんなにようけミカンを出してきてくれたんよ。」
多すぎると思ったけど、このミカンを見てから、こんなにいらんよとも言えんでねぇ、と、母は悪いことをして謝るように言い、その端切れの悪い言葉を聞きながら箱をのぞいてみれば、確かに象の皮膚のようにシワシワのミカンがいっぱいに詰まっていました。
「うちに置いとっても腐るばっかりじゃから、すぐにあんたんところに持ってこさせてもらったんよ。まあ、食べて頂戴や」
と、母はホッとしたように、申し訳ないように言うと、帰っていきました。
ミカンと一緒に母が持ってきてくれた、私が赤札半額でしか買わない和牛肉を冷蔵庫にしまいながら、途方にくれました。
こんなにたくさんのシワシワミカン、どうしよう…。
困り果てながら、とにかく一つ食べてみると、確かに味は悪くありません。
むしろ甘い。
でも、なんといっても見かけがわるいのです。
味がわかるのは食べてからのこと。
差し上げた方が、「こんなものを持ってきて!」、と腹をたてても仕方ない姿のミカンです。
でも、私は島生まれですから知っているのです。
ミカンを作った人は、そしてミカンの島の人は、ミカンを捨てたくないのです。
きっと母にこのミカンをくれた友だちも、母がもらってくれて、ホッとしたことでしょう。
そのミカンを高級和牛をオマケにつけて持ってきた母も、ミカンを私に渡してホッとしたことでしょう。
そしてミカンは、今、私の前にあります。
ババ抜きでババをとってしまった気分といったら悪いのですが、でもそんな気分です。
はてさて、これを誰にもらってもらおうか。
時間は午後3時。
春めいているこの気候ですから、一刻も早くもらい手を考えなければ。
頭の中で、腹をたてないで貰ってくれそうな人を一生懸命思い出して、ようやく5人を決めたら、次はみかんを全部箱から出して選定作業です。
貰ってもらえるもの、さすがに貰ってもらえないもの。
大いに迷いながら二分別。
いい方の山のミカンをさらに5つに分けて、わかめやひじきなどの島の産物をおまけに付けて、配達の始まりです。
「こんなミカンで申し訳ないんですが、食べていただけます?
味は意外と悪くないんですけど…」
あとは、もじゃもじゃもじゃ…。
さっきの母の声色とそっくりだと思いながら、言い訳をたくさん並べながら、ペコペコしながら5件の家を回りました。
最後のお宅は、優しくて率直でご夫婦揃ってみかんがお好きなAさん。
恐縮しきった私の口上に、「じゃあ、ちょっといただいてみるよ」とさっそく玄関先で召し上がってくださると、「おいしいじゃない!」
さらに、「うちには孫がたくさんおるから、困っとるんなら全部もっておいで」
ホッとするやらうれしいやら。
その日のうちに、すぐまた車を飛ばしてAさんのお宅に、箱入りミカンを届けました。
子供が小学生の頃、給食参観で先生が
「旬のものを食べる、というのはどういうことだと思われますか?」
とお尋ねになりました。
みんな黙っていたら先生が、
「毎日毎日、繰り返し同じものを食べるということです」
その答えが意外でよく覚えているのですが、スーパーの陳列棚のように、都合の良いときに都合のいい量があるというわけではないのが旬であり、産地なのでしょう。
そして大量の作物への愛情ともったいないの心が、作物をなんとかムダにしないようにと大事にさせているのでしょう。
(絵、マコリー田阪誠さん)(きなこ)
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