言葉

退院されたAさん。

さっそく翌日、息子さんの通院に付き添われたそうです。
でも、うまく体が動かず、逆に息子さんに介助されてトイレに行くことに。

ところが、よろめいて転倒したのが、よりにもよって息子さんの上。
息子さんが腰痛になられたのだそうです。

なんとも気の毒でなぐさめようがなく、もごもごと言いよどんでいたら、

『こういうのを、間が悪い、というんでしょうね』
、静かにAさんは言われました。


「間が悪い」

久しぶりに耳にした言葉でしたが、Aさんのこの言葉が、今もずっと心に残っています。

 

 

どうしてこんなに悪いことが重なるのだろうということがあります。
日本人の長い歴史の中で、『間が悪い』という言葉が生まれるほど多くの人が、理由もわからず、つらい思いを重ねてきたのでしょう。
自分の割りきれぬ気持ちを言葉に当てはめることで、名も知らぬ多くの人とつながり、心慰められるのでしょうか。

           (写真 ジュリエットさん「春を見つけました~東工大から~」) (きなこ)

コメント: 4 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    しゅうじ (木曜日, 21 3月 2019 19:28)

    きなこさん、こんにちは。「日本人の長い歴史の中で、『間が悪い』という言葉が生まれるほど多くの人が、理由もわからず、つらい思いを重ねてきたのでしょう。」の部分ですが、少しヒントでもいいので、補足いただけませんか。はい、もし可能ならです。...どういったことを言われてるのだろうと、はい、首のコリをほぐすついでにのらりくらりと妄想をめぐらせております。はい、ぜんぜん急ぎませんのでといいつつようつべのほうにはこちらにコメント入れましたとコメント入れておきます 笑。

  • #2

    きなこ (金曜日, 22 3月 2019 00:54)

    しゅうじさん、こんばんは。
    しゅじさんは、いつもぴったり、確信をついてくださいますね。
    質問いただいたことは、今回のブログで、一番書きたかったことで、でもうまく書けなかったなあ、と思っていたところでした。
    自分に責任があるわけでもないのに、災難が降りかかってくる、「間が悪かったんだ」としか言いようがないことってありますよね。
    そんなとき「なんで自分が」と落ち込むけれど、でも「間が悪い」という言葉があるってことは、その「間の悪さ」を無数の先人たちが経験してきたってことでもありますよね。
    自分だけじゃない、歴史上、無数の数え切れない人が、「間が悪い」ことを体験して、やり過ごしてきたんだ、と思うことで、やるせない自分の心が、少しだけ
    救われる、そんなことがあるんじゃないかなあ、と思ったんです。
    自分だけじゃないんだ、そう思うことで、少しでも自分を慰めているというか。
    うーん、やっぱり、うまく書けませんね。
    しゅうじさん、わかっていただけましたかね?

  • #3

    しゅうじ (土曜日, 23 3月 2019 05:42)

    きなこさん、おはようございます。
    そこはこのブログを通してもう何度か、きなこさんが吐露されて、わかっていたつもりのことでした。
    「日本の歴史」とあったのでなにかある事象のことを捉えて話をされているのかと思ったのですが、
    やはりその確信であったのですね。そうですよね、その心情を伝える続けるのもこのブログの存在の意味でもありますもの。
    話が変わってしまってすいませんが。わたしは物事の現象を観察して、その因果関係を整理し、それを簡潔な表現方法に置き換え、それを使い尽くして、新たな現象を成立させるための因果を定義するのが仕事です。
    とはいえ、難病指定されている病気の因果を突き詰めるほどの知識はありません。そこには血の通わない物と生身の人間の違いもあります。ですが、よほど非科学的なことでない限り、おそらく単純複雑の違いは種々あれど因果は必ずあります。ただ、ある変化が起こってもある条件を加えると元の状態に戻る可逆性のものとそうでなく元に戻らない不可逆性のものもありますが。
    私はセロトニン不調でいろいろお世話になっていますが、世の中にはいろんな因果を断絶する薬や治療法がありますね。因果をまるごと取り除いたり、長い因果の連鎖の一部の因果に焦点をあてたもの。いい薬、治療法、そうじゃないと呼ばれるもの、いろいろありますね。
    おそらくそれは血の通う人間の中に起きる変調の因果は、突き詰めれば物の因果であったとしても、無数の因子があって一筋縄では捉えられないからでしょう。
    ここからは飛んでも発奮な理論展開で、まったく証明などされていない話です。脳が信号を出し、身体がそれに応答する。これヒト一人の閉じた世界でインプット(I)~プロセス(P)~アウトプット(O)が起きています。この閉じた世界ではI~P~Oの関係性はそうそう変化はないですね。開いた世界ではPの部分にノイズ(N)、新しいコントロール(C)が生じて、I~Oの関係性に変化が生じて来ます。なにか良いN、Cが現れ、Pが変化することを期待しながらちょとずつ頑張ってみる? か!

  • #4

    きなこ (日曜日, 24 3月 2019 03:02)

    しゅうじさん、こんばんは♪
    わたしがうまく伝えられなかった、舌たらずな文章について、丁寧に考えてくださり、ほんとうにありがたいことだと感謝しています。ありがとうございますね!
    しゅうじんさんは、「因果」に関係のある、そういうお仕事をなさっているのですね。
    難しいことはよくわからないのですが、因果ということで、ごく最近心に深く留まったことは、あるご本に書いてあった「苦しみの原因を除くことでは、苦しみから救われない」という一節です。
    先日亡くなられた島根県の成福寺の本多昭人ご住職様のご本を、何度目か読ませていただいていたら、そのように書いてあることに気がつきました。
    Aということが原因でしんどいなあ、と思っていて、Aからは逃れたけど、次にBということがあれば、やっぱりしんどい。
    本多御住職さまがお書きになったことは、しゅうじさんが書いてくださっている、「開いた世界」のほうの因果の話になると思いますが、結局、苦しいのは、A,B,C・・・が原因というわけではなくて、自分が変わらなければ、ずっとしんどい、ということなのかな、と思いながら、でも、何か少しわたしの理解が浅いような気もして、なんとなく心にかかっています。
    変わろうと思っても、なかなか人は変われないものですが、でも、目の前のこと、自分の役目を一生懸命果たすことで、少しずつ「よく変わっていく」のじゃないかな、と思ったりもします。
    しゅじさんが書いてくださった「変化が生じて・・・、なにか良いNCが現れ」というのも、そのとおりだなあ、と思いました。自分に与えられた毎日を、ずっこけながらも、投げ出さず一生懸命過ごすことで、少しずつでも自分自身を信じることができるようになって、その中で、よい人たちとのよい出会いがあり、それがよい人生になっていく、ということなのかなあ、と思ったりします。